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メストレ・ビンバ

メストレ・ビンバは「カポエイラ・ヘジオナウ」
と呼ばれる格闘技の創始者です。

カポエリスタにとっては、
黒人奴隷が創始したカポエイラを
「現代の格闘術」に大きく変貌させた
偉大な功績を残した巨匠の1人です。

【誕生】
 1899年11月23日
 ブラジルで黒人奴隷制度が廃止(1888年)されてから約10年後です。 
【死亡】
 1974年 2月5日
【本名】
 マノエル・ドス・へイス・マシャド
【出生地】
 ブラジル バイーア州 サルバドール ブロタス教区バイロ・ド・エンジェーニョ・ヴェーリョ
【親族】
 ルイス・カンディド・マシャド(父)アフリカのバントゥ民族の子孫で元奴隷  アフリカの格闘技「バトゥーキ」の達人   
 マリア・マルティナ・ド・ボンフィム(母)ブラジル原住民の子孫
 マノエル・ナシメント・マシャド(息子)(メストレ・ネネル)
 マリナウヴァ・ナシメント・マシャド(娘) 
【師匠】
 ノジーニョ・ベント アフリカ人でバイーア商船会社の船長
   
【1912年~】
ビンバは12歳のとき、ノジーニョ・ベントからトラジショナウ(伝統的)なスタイルのカポエイラ(後のアンゴーラ)を約4年間学びました。その後10年間 多くの黒人が住んでいたリベルダージ 近郊でカポエイラを生徒に教えました。

この当時カポエイラを行うことは、ブラジルの法律でまだ禁止されていました。もともと奴隷制度の廃止以前からカポエイラは集団性を喚起し、黒人奴隷に自信を芽生えさせるものとして権力者から危険視されていました。奴隷制度は廃止されたにもかかわらず多くの元奴隷は政府から何の補助もないので社会生活になじむことができませんでした。そのため、カポエイラを喧嘩の道具として悪用する者が現れ、大きな社会問題を起こしました。その結果、カポエイラの社会的なイメージは救い難いほど損なわれてしまいました。

【1920年代終わり】
ビンバは、かつて 黒人奴隷が白人達に抵抗するための手段として存在した「伝統的カポエイラ」はもはや伝承する価値のない格闘技であると感じていました。それでも、カポエイラの経験と熟練に加え他の格闘技の研究を積み重ねていくうちに「伝統的カポエイラ」に父親からから受け継いだ格闘技である「バトゥーキ」の有効な技などを組み合わせることで実戦的で攻撃的なスタイルのカポエイラを創りだせる可能性に気づきました。

当時はまだ、カポエイラは路上で口頭や目視で伝授されてきたため、技の名前や方法がばらばらで統一されていなかったようです。ビンバのカポエイラは体系化され効率的な護身・攻撃で再構成されました。音楽に合わせてより速い動きで格闘する「カポエイラ・ヘジオナウ」の基礎がこうして誕生しました。

ビンバは新しいスタイルのカポエイラの実戦での有効性を確認するため合計4回の異種格闘技戦に参加しました。ビンバは圧倒的な強さで勝ち続け、その強さから「トレース・パンカーダス」のニックネームで呼ばれました。

格闘家「トレース・パンカーダス」の名は世間に広く知れ渡りました。しかしながら、カポエイラはまだ政府により禁止されていたため「カポエイラ」を格闘術の名に使うことができず、結局「ルタ・ヘジオナウ・バイアーナ」と命名したそうです。

【1932年】
当時の独裁者であったジェトゥリオ・ドルネレス・ヴァルガス大統領によりブラジルの愛国主義の発揚の試みと国民文化を見直す政策においてカポエイラが解禁されました。

同じ年にビンバは最初のカポエイラのアカデミーア(道場)を出生地である バイーア州 サルバドール で開校します。これは最初の屋内の道場でこれ以前、カポエイラは常に屋外の路上で練習・演奏をしていました。

【1937年】
ビンバは 教育・保健・公的支援の事務局で体育の講師の資格を取得しました。これによりビンバの道場は正式な認可を取得します。そして、セントロ・ジ・クトーラ・フィジカ・ヘジオナウ・バイアーノ(バイーア州 体育センター)を開校し、 「ルタ・ヘジオナウ・バイアーナ」は「カポエイラ・ヘジオナウ」と改名され新しいスポーツとして採用されました。

【1937年6月23日】
正式に営業許可を取得した最初のカポエイラ・アカデミア(道場)になりました。
カポエイラが公の場で練習・演奏できるようになりビンバの指導方針に賛同した上流階層や白人を含めたさまざまな生徒がビンバのカポエイラを学び、ときには重要な局面でビンバをサポートしたりしました。

同じ年に、行政当局の要員で出席していたジュラチ・マガリャネスのまえで「カポエイラ・ヘジオナウ」のデモンストレーションを実施しました。その後も軍や他の著名なゲストのまえでデモンストレーションを披露しました。

【1939年】
ビンバはCPOR本部でカポエイラを教えました。

【1942年】
2番目のアカデミア(道場)を設置しました。

【1949年】
作家モンテイロ・ロバトがビンバに会いカポエイリスタ・セーラーの物語を描いた短編小説「Vinte e dois de Marajó」(マラジョの22人)を捧げました。

【1953年7月23日】
カポエイラの歴史のなかでとても大きな出来事がありました。 ビンバのこれまでの活動が実を結び 、ジェトゥリオ・ドルネレス・ヴァルガス大統領とジュラチ・マガリャネス知事 の前で「カポエイラ・ヘジオナウ」のデモンストレーションが行われたのです。
大統領はこのデモンストレーションに感銘を受けカポエイラがブラジルで唯一の国民的スポーツであると宣言しました。

ヴァルガス大統領は、カポエイラと宗教であるカンドンブレの両方を犯罪とする法律をすでに無効にしていましたが、カンドンブレの慣行にはまだ制限がある中カポエイラは大統領の承認を得たことでスポーツとしての自由を味わい人目をはばかることなく楽しむことができました。

ビンバは優れた格闘家であると同時に優れた教育者でもありました。稽古のときは、上下白色のユニフォームの着用を義務づけました。生徒の熟練度をコルダオン(腰の帯)の色で区別しました。メストレ ビンバのカポエイラ へジオナウ アカデミアには、技術面と規律面を含む9つの項目からなる規則がありました。

1. 喫煙をやめる。トレーニング中は禁煙です。
2. 飲酒をやめる。アルコールの使用は筋肉の代謝を損ないます。
3. カポエイラの「ホーダ」以外で友達に自分の進歩を示すことは避けてください。驚愕は戦いの最高の味方であることを忘れないでください。
4. トレーニング中は会話を避けてください。ジムで過ごす時間に対して料金を支払っています。他の格闘者を見ることで、より多くのことを学ぶことができます。
5. 常にジンガを探求しましょう。
6. 基礎練習を毎日行いましょう。
7. 相手に近づくことを恐れないでください。近くにいるほど、よりよく学ぶことができます。
8. 体をリラックスさせてください。
9.「路上」よりも「ホーダ」で衝突するほうがよいです。

【1973】
ビンバは財政上の理由かからバイアナからゴイアニアに移りました。

【1974年2月5日】
脳卒中で死亡しました。

【1992年6月12日】バイアナ連邦大学はビンバに名誉博士号(死後)の称号を与えました。

メストレ・ビンバの伝記

引用元
MESTRE NENEL’S BOOK : BIMBA ONE CENTURY OF CAPOEIRA REGIONAL
カポエイラ: はじける肉体の即興芸術自由に、軽やかに、のびやかに
作者: 三田雄士, カルメン・ミタ · 現代書林 
Mestre Bimba
https://pt.wikipedia.org/wiki/Mestre_Bimba
https://youtu.be/ObGj2e2bsAc
https://youtu.be/nQag793wpBk