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ズンビ・ドス・パウマレス

ズンビ(Zumbi)は、パウマレスのキロンボの黒人奴隷抵抗のリーダーでした。

「キロンボ」について

植民地時代のブラジル、1600年以降、製糖工場からの逃亡奴隷の何人かは、現在のアラゴアス州の地域であるセラダバリガにすでに避難していました。これらの逃亡に成功した逃亡奴隷たちによって形成された小さな集落が「モカンボ」で、この「モカンボ」が集まった共同体が「キロンボ」です。1888年の奴隷解放にいたるまでブラジル各地に存在しました。

 キロンボ・ドス・パウマレス(Quilombo dos Palmares パウマレス共和国)

1605年から1694年に制圧されるまで90年間王政を維持しました。約2万人の自由な男と女と子供が住んでいたとされています。1630年、ペルナンブコはオランダの支配下にあり、戦争や監視の甘さがキロンボのパウマレスへの奴隷の逃亡を増加させました。 1644年から1645年の間に、キロンボを破壊するためにオランダの遠征隊が組織されましたが、成功しませんでした。 1654年、ポルトガル人によってオランダ人が北東部から追放されることで、キロンボの討伐が激しさを増しました。当時のパウマレスは今で言うとアラゴアス州のサンフランシスコ川の下流です。

https://upload.wikimedia.org/wikipedia/commons/e/e1/Brazil_State_Alagoas.svg

https://goo.gl/maps/eC8tWmXaC7ff3M4G9

ズンビは、1655年頃にパウマレスのキロンボで生まれたとされています。彼は、黒人の王女アクアツネの孫であり、最も栄えたなモカンボのリーダーであるガンガ・ズンバとガナ・ゾーナの甥でした。ズンビの名前はもともと戦争の神からきています。伝説によると、ズンビの名は司祭によって与えられました。ズンビはキロンボの中で自由に成長しました。彼は、長老たちが彼に語った恐ろしい話(奴隷船で死にかけた思い出など)を聞かされていました。ズンビはダンダラ(戦士女)と結婚し、3人の子どもに恵まれました。

パウマレスのキロンボは、逃亡した奴隷のための単純な避難所から、奴隷制度全体に対する抵抗の中心地になりました。パウマレスとこの地域の入植者の間の貿易が急成長しているにもかかわらず、平和は一時的なものにすぎませんでした。
1671年から1674年の間に、キロンボに対して2つの遠征隊が組織されましたが、キロンボを破壊するにいたりませんでした。 1675年、マヌエルロペスの軍隊の侵攻中に、2,000を超える槍などで敷地の防衛を強化しているなど、パウマレスの広大な拡張が明らかになりました。

1677年、ペルナンブコ州知事のペドロ・デ・アルメイダが出向したフェルナンキャリリョがアクアチュンのモカンボを攻撃します。ガンガ・ズンバと彼の身内の人々のほとんどが逃げます。1678年、ガンガ・ズンバは、平和協定を結ぶために使者を送ることを決めました。ズンビの息子3人とさらに12人の黒人をレシフェに送り、和平協定を結びました。

パウマレスのキロンボが存続するための条件は勝ち取りましたが、ズンビは協定の内容に満足せず、ガンガ・ズンバによる和平合意に同意しませんでした。彼にとって、それはただ自由に暮らすことが問題ではなく、まだ奴隷であった人々を解放することのほうが大事であると考えたからです。やがてズンビは反乱をおこし、ガンガ・ズンバが何者かに毒殺されるという血なまぐさい事件が起こりました。そして、ズンビが王位につきます。

1691年ポルトガルからの命令で、奥地探検隊(バンデイランテス)のドミンゴス・ホルヘ・ヴェーリョにより、1,000人以上の兵士が、ズンビが抵抗を指揮したマカコのモカンボに侵入しました。数回の戦いの後、ズンビはポルト・カルボに逃げます。1694年、キロンボは再び攻撃されました。そして、セラダバリガに逃げ込み、死ぬまで抵抗します。

ズンビは1695年11月20日 裏切りにあい、捕らえられた後に斬首されました。国家の命令でズンビのの頭部はレシフェに運ばれ、人々の目に晒されました。
11月20日はズンビに敬意を表して、黒人の自覚の日として祝われています。




https://en.wikipedia.org/wiki/File:Brazil_State_Alagoas.svg