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メストレ・パスチーニャ

メストレ・パスチーニャは「カポエイラ・アンゴーラ」の創始者です。
「カポエイラ・アンゴーラ」は儀式を重んじ、比較的ゆっくりとした動作で、動物の動きを真似たアフリカの土着の格闘技に近い「カポエイラ」のスタイルです。
師匠であるメストレ・ベネジートの出身地だったブラジルのアンゴーラ地方(この地方の名前はアフリカのアンゴラに由来する)から命名しました。 奴隷でない身分の人にもカポエイラを教えた最初の人です。

メストレ・パスチーニャ
生年月日:1889年4月5日
出生地:ブラジル・バイーア州 サルヴァドール
死亡:1981年11月13日(92歳)
両親: 父 スペイン人 / 母 アフリカ人
師匠:メストレ・ベネジート
本名:ヴィセンチ・フェヘイラ・パスチーニャ

メストレ・パスチーニャの幼少時代、師匠メストレ・ベネジートとの出会い
ある日、窓の外でアフリカ人の老人が、パスチーニャと彼をいじめる少年との喧嘩を見ていました。その喧嘩の後、いじめられて泣いているパスチーニャに老人(メストレ・ベネジート)は声をかけてきました。

パスチーニャは「相手は年上で自分よりも大きいから倒せない」と言いましたが、老人は「私の家に来きたら、君に非常に大切なことを教えよう」と言いました。それからパスチーニャは老人の家に行くようになり、 カポエイラの歴史に関連する闘いや信仰、芸術的な儀式について学んでいきました。

再び、パスチーニャはその少年と対決することになりますが、見事に圧勝し、その少年から賞賛、尊敬されるようになりました。その後もパスチーニャはメストレ・ベネジートのもとで3年間トレーニングを続けました。

当時の学者の記録によると、特権階級の白人たちが、アフリカ人(黒人)をブラジルに強制的に船で連行し、 黒人のアイデンティティを表すすべてのものを剥奪していきました。常に抑圧の危険があった黒人たちは、 護身や自分自身を表現するものとして、密かにカポエイラを練習する方法を発達させました。

白人からの迫害や抑圧がひどいため、カポエイラは素早く静かな打撃や、警官の武器を取り外すもの、 危険な状況から無傷で脱出するものへと変化していきました。同時に、カポエイラはブラジル人たちの精神性、民族的儀式、肉体的・言語的表現へと一体化していきました。

またカポエイラには、マンジンガ(カポエイリスタに必要な能力で、試合の中で相手の意表をつく動きをすること)、遊び、戦略的、音楽性の要素が含まれていました。さらにカポエイラには、身体と心そして精神の自由がありました。白人たちがカポエイラを抑圧すればするほど、黒人たちはカポエイラをさらに実践していきました。

しかし、奴隷制度が廃止された後、黒人たちは政府から無法者のように扱われていました。そういった黒人たちがリオデジャネイロやサルバドール(バイーア州)などの港湾都市を中心に集まったことによって治安悪化が問題視されました。カポエイラは無法者が行うものとして卑下されていたため、1890年(奴隷制度が廃止された2年後)ブラジル憲法の下でカポエイラが禁止されました。 ※【参照】

1910年からメストレ・パスチーニャは、カポエイラが自由にできるようになるための解放運動を行いました。彼はバイーアにいるすべての偉大なメストレから認められていました。さらに、カポエイラを組織するための実践的なビジョンと優れた教訓を持ち、「カポエイラ・ジ・アンゴーラ」の伝統とその哲学に関するいくつかの論文を作成したため、彼は「カポエイラ界の守護神」と言われました。

しかし、パスチーニャが獲得した伝統的なカポエイラの「私達の平和、主人との戦争」の道徳とカポエイラの永続化に反するかのように、1930年代にカポエイラの新しい運動が現れました。

メストレ・ビンバは、この新しい運動の指導者として「カポエイラ・ヘジオナウ」を設立し、空手や柔術などの他の武術とカポエイラの芸術性を融合させます。カポエイラをスポーツに近づけさせ、犯罪から遠ざけようとしました。「カポエイラ・ヘジオナウ」は多くのファン、特に当時の特権階級の若者のファンを獲得しました。彼らは破壊的な打撃とアクロバティックな動きに魅了されました。

当時「カポエイラ・アンゴーラ」は動きが遅くて戦略的な試合だったので、面白味がないと考えられていました。ビンバのカポエイラは1935年に非犯罪化につながりました。これは主に「国の武術」を作りたいと考えていた当時の大統領ジェトゥーリオ・ヴァルガスの権威主義政策によるもので、後にビンバは国立宮殿で大統領を前にカポエイラのプレゼンテーションを行いました。

その間、パスチーニャはその穏やかなステップで「カポエイラ・アンゴーラ」を進化させました。 1941年、彼は政府によって合法化された「カポエイラ・アンゴーラ」で最も伝統的なカポエイラ学校CECA(Centro Esportivo de Capoeira Angola)を設立しました。そこでは現在でも知られているアンゴラの巨匠を何人も輩出し、アフリカでも知られる当時の人格者がこぞって参加しました。

しかしながら、残念なことに1971年、当時の独裁政府によってカポエイラ学校は略奪されてしまいました。1981年11月13日、パスチーニャは92歳で亡くなりました。パスチーニャの死後、パスチーニャの弟子を含むほとんどのカポエイリスタは、ヨーロッパや北米に移住し、そこで彼らはメストレ・パスチーニャの教えを継承しました。

多くのカポエイラのメストレにとって、メストレ・パスチーニャは「メストレ中のメストレ」と賞賛されました。

※【参照】
ブラジル連邦共和国の刑法
【1890年10月11日の政令番号847】
通りや公共の広場で、”カポエイラジェン”という名で知られている運動、身体の器用さを見せる練習などを行った場合、また、身体を傷つける、混乱や障害を引き起こす、人を脅かしたり、恐怖心を抱かせる武器や器具を使って悪行を行った場合、2〜6か月の独房刑に処す。殺害した場合は最上級の刑に処す。

”カポエイラ”や”バンド”または”マルタ”(カポエイリストが集まった秘密組織)に属している人は、状況を悪化させると考えられるため、リーダーまたは最初に問題行動を起こした人物にダブルペナルティが課される。
再犯した場合、カポエイラをしていたら1~3年の懲役。
外国人が罪を犯した場合、刑期満了後に強制送還される。

【第404条】
カポエイラ演習で殺人、人身傷害、秩序の乱れ、治安悪化、武器所持が判明した場合、最上級の刑に処す。